どうもさくです。
ラッセルの「幸福論」によると、他人と比較することで不幸になるとのこと。確かに、他人と比較することは、必ず足りない部分を見つけてしまうことになり、嫉妬や劣等感など負の感情を生み出してしまう元になります。
こうした、他人と比較することのデメリットは多くの自己啓発本や仏教書にも書いてあり、比較しないことで幸福が得られるとする主張は真実のようにも感じられます。
しかし、分析という観点から、比較は重要な手法です。
例えば、企業の財務分析をする場合。
基本的に安全性や成長性とは相対的なものです。必ず、過去、現在、未来という時間軸と、日本の競合他社、海外の競合他社という地域軸を使って比較します。
自分の立ち位置を理解する上で、何か物差しになるものが必要なのですが、そのものさしは、基本的に他者であることが重要です。
そもそも、凡人であるさくのような人間は、他人と比較しながら生きていかないと、自分の社会での立ち位置を把握することが難しいです。いつ、どんな時代でも、社会的価値観や習慣は相対的なものだからです。
例えば、今現在のものさしで測ったら、歴史上の偉人たちも、相当な悪人と言われる人たちばかりではないでしょうか。少なくとも、素行が良いとは全然言えません。それは、その時代で価値観が変わるからです。そして、さくのような凡人は、その時々の価値観に大いに影響されてしまい、中立的な立場に立つなどどいうことは絶対にできません。必ずバイアスがかかってしまいます。
日本人は、西洋的な考え方と違い、こうした相対的な価値観について馴染みがあります。仏教的と言っても良いでしょう。西洋のロゴス中心主義とは違い、絶対的な善のような考え方はありません。
だからこそ比べるのです。
問題は、その比較の仕方にあるのではないでしょうか?
近いものと比較しすぎなのです。
例えば、同僚との給料が5000円違うだけで、サラリーマンは大きな劣等感や優越感を感じてしまいます。しかし、例えばメジャーリーガーが10億円もらっていても、格差を感じません。
例えば、自分の会社の日本人のサラリーマン社長が1億円もらっていると、もらいすぎと思いますが、プロ経営者の外国人社長が10億円もらっていても仕方ないと諦められます。
人は、自分と近い存在に嫉妬するのです。
近隣諸国やご近所づきあいはモメがちですが、文化的にはご近所さんや近隣諸国の人々は近いはずです。
さくが提案したいのは、むしろ、どんどん比較して自分の立ち位置をもっと明確化してしまうという戦略です。
まずは横の比較。
自分が400万円の給料をもらっているとした場合、日本ではどれぐらいの位置にあるのだろうか。年齢的には、性別的には、どうだろうか。OECDではどれぐらいが平均だろうか。米国はどうだろうか。などなど。
こうして見ていくと、400万円の給料は、日本人中年男性としては、少し少ないけれども、世界人口的には上位で、先進国的には少ない、ということが分かります。また、平均で調べたけれども、中央値的にはどうだろうか。などなど。
次に時間的な比較。
1990年ぐらいから、この400万円という給料の立ち位置はあまり変わっていないことが分かる。ただ、実感として、1990年の400万円より苦しく感じるのはなぜだろう。実感は苦しく感じるのに、冷静に考えると、当時よりすべての生活用品は進化していて便利になっているのもわかる。
こうして、比較すると、同僚との1000円の給料の差など誤差に感じないでしょうか。
今回は、比較をどんどんしようという内容でした。
人は比較することによってのみ、自分の立ち位置を明確化することができます。あくまでも自分の考えというのは、相対的なものにすぎません。
この時、比較する相手として自分の近い人ではなくて、地域の離れた人、時代の離れた人と比較したほうが良いと思います。そして、自分の立ち位置を理解すると、冷静に自分を受け止められて、納得感が得られるのではないでしょうか。
近い人と比較すると、心理的に負担感を感じます。比較するなら遠い人が良いでしょう。そして、比較することのメリットを十分に享受するのはいかがでしょうか?
今回はこんな感じです。
ではでは。
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ラッセルの「幸福論」によると、他人と比較することで不幸になるとのこと。確かに、他人と比較することは、必ず足りない部分を見つけてしまうことになり、嫉妬や劣等感など負の感情を生み出してしまう元になります。
こうした、他人と比較することのデメリットは多くの自己啓発本や仏教書にも書いてあり、比較しないことで幸福が得られるとする主張は真実のようにも感じられます。
比較は分析の基本
しかし、分析という観点から、比較は重要な手法です。
例えば、企業の財務分析をする場合。
基本的に安全性や成長性とは相対的なものです。必ず、過去、現在、未来という時間軸と、日本の競合他社、海外の競合他社という地域軸を使って比較します。
自分の立ち位置を理解する上で、何か物差しになるものが必要なのですが、そのものさしは、基本的に他者であることが重要です。
比較することのメリット
そもそも、凡人であるさくのような人間は、他人と比較しながら生きていかないと、自分の社会での立ち位置を把握することが難しいです。いつ、どんな時代でも、社会的価値観や習慣は相対的なものだからです。
例えば、今現在のものさしで測ったら、歴史上の偉人たちも、相当な悪人と言われる人たちばかりではないでしょうか。少なくとも、素行が良いとは全然言えません。それは、その時代で価値観が変わるからです。そして、さくのような凡人は、その時々の価値観に大いに影響されてしまい、中立的な立場に立つなどどいうことは絶対にできません。必ずバイアスがかかってしまいます。
日本人は、西洋的な考え方と違い、こうした相対的な価値観について馴染みがあります。仏教的と言っても良いでしょう。西洋のロゴス中心主義とは違い、絶対的な善のような考え方はありません。
だからこそ比べるのです。
問題は比較対象が間違っていること
問題は、その比較の仕方にあるのではないでしょうか?
近いものと比較しすぎなのです。
例えば、同僚との給料が5000円違うだけで、サラリーマンは大きな劣等感や優越感を感じてしまいます。しかし、例えばメジャーリーガーが10億円もらっていても、格差を感じません。
例えば、自分の会社の日本人のサラリーマン社長が1億円もらっていると、もらいすぎと思いますが、プロ経営者の外国人社長が10億円もらっていても仕方ないと諦められます。
人は、自分と近い存在に嫉妬するのです。
近隣諸国やご近所づきあいはモメがちですが、文化的にはご近所さんや近隣諸国の人々は近いはずです。
さくが提案したいのは、むしろ、どんどん比較して自分の立ち位置をもっと明確化してしまうという戦略です。
まずは横の比較。
自分が400万円の給料をもらっているとした場合、日本ではどれぐらいの位置にあるのだろうか。年齢的には、性別的には、どうだろうか。OECDではどれぐらいが平均だろうか。米国はどうだろうか。などなど。
こうして見ていくと、400万円の給料は、日本人中年男性としては、少し少ないけれども、世界人口的には上位で、先進国的には少ない、ということが分かります。また、平均で調べたけれども、中央値的にはどうだろうか。などなど。
次に時間的な比較。
1990年ぐらいから、この400万円という給料の立ち位置はあまり変わっていないことが分かる。ただ、実感として、1990年の400万円より苦しく感じるのはなぜだろう。実感は苦しく感じるのに、冷静に考えると、当時よりすべての生活用品は進化していて便利になっているのもわかる。
こうして、比較すると、同僚との1000円の給料の差など誤差に感じないでしょうか。
まとめ
今回は、比較をどんどんしようという内容でした。
人は比較することによってのみ、自分の立ち位置を明確化することができます。あくまでも自分の考えというのは、相対的なものにすぎません。
この時、比較する相手として自分の近い人ではなくて、地域の離れた人、時代の離れた人と比較したほうが良いと思います。そして、自分の立ち位置を理解すると、冷静に自分を受け止められて、納得感が得られるのではないでしょうか。
近い人と比較すると、心理的に負担感を感じます。比較するなら遠い人が良いでしょう。そして、比較することのメリットを十分に享受するのはいかがでしょうか?
今回はこんな感じです。
ではでは。
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