どうもさくです。
少し古い話ではありますが、昨年の7月23日放送のテレビ東京「カンブリア宮殿」に出演した永守会長が話題になりました。
永守会長の意見として、「経営学部を出ても経営のことを全然知らず、税金のこともわからない」「名刺の渡し方もわからない」などと発言し、ツイッター上で批判的な意見が盛り上がりました。
そんなさくも、大学卒業時で名刺の渡し方も、電話の取り方も、そもそも、きちんとした社会人的振る舞い(遅刻なく毎日出社するなど)すらできていませんでした。その意味で、永守会長の意見は耳が痛いかぎりです。
ここで、永守会長への批判的な意見として、大学は就職予備校ではないというものがあげられると思います。
そもそも、大学の存在理由とはなんでしょうか。
それは、大きく分けて2つあると考えられます。一つ目は、先端研究。二つ目は高度教育。
この二つの役割があるから、大学法人は存在する意義があると言えるでしょう。そして、この二つ目の高度教育の点について、永守会長は大学に対して意見があると考えられます。
大学はきちんと高度教育が行えていないではないかと。
大学は、先端研究を行う研究機関としての役割を持っています。
ですので、修士になると研究をして学術論文を書くトレーニングが施されます。そして、その成果として修士論文を書きあげます。博士課程では、学術論文を発表し、何本かの論文が認められりると博士という学位を得ます。大学院教育は、日本の大学ならある程度その教育的な意味合いは共通なのではないでしょうか。
しかし、学士とはなんなのでしょうか。
それは、大学で一定の単位を取得したものが得られる学位なのです。つまり、大学が教えたことを習得できていれば学位を得られるという仕組みになっているのです。
要するに、何を学ぶかはあまり関係なく、単位を取得すれば大学は出られることになります。
さくが、大学生だったころ、一般教養として、哲学やら西洋史やらを単位として取得した記憶があります。しかし、こうした勉強は、単位取得のために仕方なくとったもので、人生に役に立ったことはありません。本来ならば役に立った内容なのかもしれませんが、内容を一切覚えていないのです。また、専門分野についても、多くの単位を取ったのですが、その中身は全く覚えていません。
さくの偏見ですが、大学は、学部生に修士課程に進むような勉強の準備段階を教えているような気がします。つまり、大学側からすると、研究者である教授や助教授などになるために大学院があり、学部生はその大学院に入るための準備をしているかのような教育課程だったように思います。
しかし、大多数の大学院に進まない大学生や、それを受け入れる企業側としては、そんなすぐには役に立たない学術的な知識よりも、学生の生産性や社会性を高めるような教育を行ってほしいと思うのではないでしょうか。
つまり、学問への連続としての前段階としての教養ではなく、実践的に今使える実学を求めているのではないかと。
大学としては、当然、論文の数やインパクトでその質が測られます。そのため、多くの学生にもその準備を行ってほしいというインセンティブが働くのは当然です。
一方で、学生のほとんど、特に日本のように18歳前後から入学することが一般的である場合、こうした学術的トレーニングは何の役にもたちません。なぜならば、研究者にはならないからです。もしくは、入っている学部とは関係のある産業にすら就職しないでしょう。
つまり、大学側の言い分と学生・企業側の言い分が大きく隔たりがあるように思えます。
さくは、研究という観点からも、教育という観点からも、大学の4年間という期間が長すぎると考えています。そして、多くの大学の学部では、研究という観点からも、教育という観点からも、存在理由が薄いような気がしています。つまり、なんのために存在しているかわからない大学が多すぎるように感じます。
むしろ、代替的に職業訓練となるような教育機関があれば、そして、そこに格差がないのであれば、そちらの方が望ましいような気がします。
数ヶ月前、NHKで、コロナ禍に大学生が困窮しているとの番組を見ました。そして、その中で、休学をして就職をするという選択をした学生が紹介されていました。
さくとしては、これこそが、正しい選択なのだと思いました。そもそも、大学とは困窮してまで、「今」通うべき価値のあるものでもないと思います。そして、必要になれば社会人になってから通いなおすことができる場所でもあります。このような、価値ある選択できる若者を見て、自分の学生の頃、理由なく大学に行っていたこと反省する気持ちになりました。
大学は聖域ではなく、ただのサービス業です。コロナ禍で、通う価値がないのであれば、もしくは、働く価値の方が高いのであれば選択的に行動を変えるべきです。(というか、リモート授業なのに授業料返還しない大学ってなんなんでしょう。)そして、そのように、選択的な行動が増えれば、付加価値を提供できない大学(企業や学生が望まないサービスを提供し続ける大学)は、なくなっていくのではないでしょうか。
そんな風に思いました。
ではでは。
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少し古い話ではありますが、昨年の7月23日放送のテレビ東京「カンブリア宮殿」に出演した永守会長が話題になりました。
永守会長の意見として、「経営学部を出ても経営のことを全然知らず、税金のこともわからない」「名刺の渡し方もわからない」などと発言し、ツイッター上で批判的な意見が盛り上がりました。
そんなさくも、大学卒業時で名刺の渡し方も、電話の取り方も、そもそも、きちんとした社会人的振る舞い(遅刻なく毎日出社するなど)すらできていませんでした。その意味で、永守会長の意見は耳が痛いかぎりです。
大学はなんのためにある
ここで、永守会長への批判的な意見として、大学は就職予備校ではないというものがあげられると思います。
そもそも、大学の存在理由とはなんでしょうか。
それは、大きく分けて2つあると考えられます。一つ目は、先端研究。二つ目は高度教育。
この二つの役割があるから、大学法人は存在する意義があると言えるでしょう。そして、この二つ目の高度教育の点について、永守会長は大学に対して意見があると考えられます。
大学はきちんと高度教育が行えていないではないかと。
大学ってどうしたら卒業できるのか
大学は、先端研究を行う研究機関としての役割を持っています。
ですので、修士になると研究をして学術論文を書くトレーニングが施されます。そして、その成果として修士論文を書きあげます。博士課程では、学術論文を発表し、何本かの論文が認められりると博士という学位を得ます。大学院教育は、日本の大学ならある程度その教育的な意味合いは共通なのではないでしょうか。
しかし、学士とはなんなのでしょうか。
それは、大学で一定の単位を取得したものが得られる学位なのです。つまり、大学が教えたことを習得できていれば学位を得られるという仕組みになっているのです。
要するに、何を学ぶかはあまり関係なく、単位を取得すれば大学は出られることになります。
大学と企業や学生で意識にギャップがある
さくが、大学生だったころ、一般教養として、哲学やら西洋史やらを単位として取得した記憶があります。しかし、こうした勉強は、単位取得のために仕方なくとったもので、人生に役に立ったことはありません。本来ならば役に立った内容なのかもしれませんが、内容を一切覚えていないのです。また、専門分野についても、多くの単位を取ったのですが、その中身は全く覚えていません。
さくの偏見ですが、大学は、学部生に修士課程に進むような勉強の準備段階を教えているような気がします。つまり、大学側からすると、研究者である教授や助教授などになるために大学院があり、学部生はその大学院に入るための準備をしているかのような教育課程だったように思います。
しかし、大多数の大学院に進まない大学生や、それを受け入れる企業側としては、そんなすぐには役に立たない学術的な知識よりも、学生の生産性や社会性を高めるような教育を行ってほしいと思うのではないでしょうか。
つまり、学問への連続としての前段階としての教養ではなく、実践的に今使える実学を求めているのではないかと。
ギャップが大きすぎて埋まらない
大学としては、当然、論文の数やインパクトでその質が測られます。そのため、多くの学生にもその準備を行ってほしいというインセンティブが働くのは当然です。
一方で、学生のほとんど、特に日本のように18歳前後から入学することが一般的である場合、こうした学術的トレーニングは何の役にもたちません。なぜならば、研究者にはならないからです。もしくは、入っている学部とは関係のある産業にすら就職しないでしょう。
つまり、大学側の言い分と学生・企業側の言い分が大きく隔たりがあるように思えます。
まとめ
さくは、研究という観点からも、教育という観点からも、大学の4年間という期間が長すぎると考えています。そして、多くの大学の学部では、研究という観点からも、教育という観点からも、存在理由が薄いような気がしています。つまり、なんのために存在しているかわからない大学が多すぎるように感じます。
むしろ、代替的に職業訓練となるような教育機関があれば、そして、そこに格差がないのであれば、そちらの方が望ましいような気がします。
数ヶ月前、NHKで、コロナ禍に大学生が困窮しているとの番組を見ました。そして、その中で、休学をして就職をするという選択をした学生が紹介されていました。
さくとしては、これこそが、正しい選択なのだと思いました。そもそも、大学とは困窮してまで、「今」通うべき価値のあるものでもないと思います。そして、必要になれば社会人になってから通いなおすことができる場所でもあります。このような、価値ある選択できる若者を見て、自分の学生の頃、理由なく大学に行っていたこと反省する気持ちになりました。
大学は聖域ではなく、ただのサービス業です。コロナ禍で、通う価値がないのであれば、もしくは、働く価値の方が高いのであれば選択的に行動を変えるべきです。(というか、リモート授業なのに授業料返還しない大学ってなんなんでしょう。)そして、そのように、選択的な行動が増えれば、付加価値を提供できない大学(企業や学生が望まないサービスを提供し続ける大学)は、なくなっていくのではないでしょうか。
そんな風に思いました。
ではでは。
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